「きょうしろう」と申します。連日のオシゴトの合間にも、校舎の軒先にあるツバメの巣から、ひなどりが首を長く伸ばしてえさをもらうさまを眺める心のゆとりをもとうとしている現役小学校教員です。今回のテーマは、自分にとっての苦手項目のひとつ、教室内掲示についてです。なぜ苦手なのか、克服の手立てをどうとるか、そもそもとる必要があるのか、そんなことを深掘りしていこうと思います。お付き合いください。
思い返してみれば初任の頃、つまり四半世紀を超えるほど昔から、教室内の掲示物についてはあれこれと頭を悩ませることが多かった。大半の先生方は、なるほどこぎれいでセンスのある掲示のしかたがデフォルトとなっているので、これらを日夜目にしていれば、そこそこの見様見真似は可能であるにもかかわらず、である。
自分では決してセンスがないとは思っていないので、となるとそこに割く熱量をほかに割り当てているという言い訳が立つ。まあ、図工作品の掲示のしかたについては、多少のセンスが問われることはあるとして、ここでは掲示のしかたではなく、そもそも「何を掲示するか」について述べる。児童の図工作品以外で教室掲示のデフォルトといえるものを思いつくままに挙げるとすると「書写の作品」「ワークシート類がスポッと入るクリアフォルダ」「係の分担表」「学級通信・学年だより・学校だより的なもの」「クラス目標」あたりか。
そこで考えてみる。なぜ自分は掲示物で頭を悩ませてきたのか。
理由は「必要性の基準が明確でないから」となる。つまり、あると見栄えはよろしいが、なくても困らないものについて、時間と労力をかけるべきかを都度考えるのである。ここでいう「考える」とは「本当にそうか?」と疑ってみるという意味に近い。だから、一度立ち止まって考えると「やっぱりなくてもよいのでは?」に落ち着くことの方が多くなる。
逆に、自分にとって「ぜひ紹介したい」「子どもたちに注目させたい」という熱量が高い対象なら、そもそも「立ち止まって考える」という行程を飛ばして体が動いている。まあ、この熱量と躍動感こそが教師の超過勤務の大きな要因になっているわけですが。
話を戻すと、図工や書写に代表される児童の作品については、基本的にみな掲示する。クラス経営における必要最低限の情報も、公開しておかなければ子どもたちが困ってしまう。「あれ、まだ黒板が消されていないけど、新しい黒板係って誰だっけ?分かるように貼り出しておいてほしいな」といった具合。
こういった必要性が明確であるもの以外は、個人的に「なくてもよいのでは派」である。ここで、多くの教室にはあるが、私が担任する教室にないものについて気づいた。
大きく2つ。1つは時系列に沿った思い出の写真。「進級や入学のとき、桜の木の下でとった集合写真」に始まり、運動会や遠足、学習発表会などなど、大きな行事や節目のタイミングで撮影し、それらを教室に飾って1年間を振り返る一助とするものである。確かに私は、それらを掲示してこなかった。
もう1つが、その単元で学んでいる内容をまとめた模造紙である。たとえば割り算の筆算を学習したときに使う「たてる・かける・ひく・おろす」のキーワードを、例題に沿って解説したものだったり、国語の説明文の構成が分かりやすいよう、段落ごとに内容や大事な言葉をまとめたものだったり。
そういった「学習の足跡」的なものも、私自身はそれほど重視してこなかった。いえいえ「学習の足跡を」ではなく「それを記録として掲示することを」重視してこなかったという意味です。
その分、日々のノート指導に力を注ぎ、必要に応じてその該当ページに戻るよう指示したり、模造紙への記入ではなく、電子教科書や自作教材をモニタやプロジェクタで投影してみせたりといった工夫で代用してきたわけだ。労力対効果で考えると、どうしても模造紙や拡大写真の作成や掲示は、非効率に思えてしまう。子どもたちの理解やモチベーションに違いがあるなら、そこに費やす労力や時間もありという気になるが、これまでの経験から、プロジェクタ投影と模造紙との間に顕著な差はないと自負している。
結果として、私が担任する教室内環境は、よくいえばシンプルで刺激が少ない。悪くいうのはやめる。あらら、苦手を克服するすべを考えるのではなく、開き直ることになりました。
こういった考え方も、その考え方に即した実践も、教師として必要な資質の1つだと自分では思います。今回もまた最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。
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