ノート記述「あるある」の考察②

児童実態

「きょうしろう」と申します。ノート記述について散見される実態についての考察②です。

 前回は「いたずら描き」について考察した。今回は「右開き・左開き」について考えてみたい。ノートの表紙側を上にして机上に置いたとき、国語だと左側が開いているのに対して、算数やその他は右側が開いている。いい方を変えると、国語のみ右側が綴じられていて、後は左綴じとなる。

古来よりの風習なのか、縦書きの文章はページの右側から書き始め、順に左側に向かって書いていくので、国語のノートは右綴じ、つまり右スタートでないと不都合なのだ。対する算数その他は基本的に横書きである。横書きの文は左側から書き始めるので、ノートもそれに沿った開き方をするのが普通ということになる。

ところが、古来よりの風習という概念のない学齢の児童にとって、ノートの開き方や書き出しの位置なんてものは、ほとんど意味を成さない。「こういう理由で国語はこっちから、算数はこっちからなんです」なんて説明は毎年4月上旬にするのだが、基本「へーそーなんだー」で済まされる。

それでもほとんどの児童は、教科書の開き方の真似をすればいいことは分かっているため、最初のスタートページだけ示唆してやれば、あとは自然とそれに続けて「右開き」「左開き」に従って書き進めてくれる。

ところが、毎年ほぼ一定数、無理やり途中から逆行する児童が現れる。国語のノートなのに、しかもこの間までは普通に右綴じで書き進めていたのに、ある日いきなり逆側の1ページ目から、再スタートを切るのである。

国語のノートの使い方でいえば、こんな例もある。確かに右綴じで毎時間書いているのだが、なぜかそのページの書き出しはいつも左上からという場合。こちらとしては、読みにくいのだが意味は伝わる。本人にしてみると、書きにくさすらないのかもしれない。ノートに書き記していくという作業に「慣れる」という感覚がないのかもしれない。だから違和感を覚えないのかもしれない。そういった児童にとって「書く」という工程は、いくら積み重ねても、できれば避けたい面倒な作業なのだろう。

ここまで考えてみると、やはり1つの疑問に行き着く。そもそもなぜ国語という教科は縦書きなのか。先にさらっと「古来よりの風習」とまとめたが、その風習は日本人が鉛筆ではなく筆と墨を使っていた頃に根付いたものだと考えられる。その風習をそのまま当てはめるのは強引すぎる気がする。筆と鉛筆は持ち方が異なるからだ。これは3年生の書写で、初めて毛筆を学習するときの指導内容だが、筆はかなり上の方をもち、手首も、小指側の手の腹(チョップするときに当てるところ)も紙から浮かしたままで書き進める。そうしないと、まだ乾いていない紙上の墨が、手にも袖にもべったり付いてしまうからである。

それと同じ書き方を鉛筆でしようとすると、とても書きにくいことが分かる。私たちは無意識に手首や手の腹を紙上に接しながら鉛筆やペンを使っているのだ。

接しながら書き続けるとどうなるか。当たり前だが、紙上に書き連ねた字と手の腹がこすれていくことになる。夢中で作文を書いた後などは、小指側の腹が真っ黒になっていることに気づく。

対する横書きでは、そのデメリットがほぼない。手と触れる部分には、まだ何も書かれていないからだ。ここだけ見ると、教科にかかわらず、横書きを推奨した方がよいのでは?という思いがもたげてくる。実際、道徳の授業では、教科書は国語と同じ右綴じの縦書きになっているものの、板書やノート記述、ワークシートの作りは横書きで進めている教師も多い。私もその一人だ。

こう書いてみても、国語を横書きに移行する、ノートも左綴じにするとなると、かなり大がかりな変革が必要となることは想像に難くない。変革の困難さ以外にも、そうしない理由はきっと他にいくつもあるだろう。だが、何かきっかけがあれば、すぐに大きな変革に着手するという機運は、ここ数年で着実に根付いている。そういう議論は、きっともうすでに起きているのではないかとも思う。そのとき自分が「賛成」というかどうか、いまのうちから根拠を考えるという備えはしておきたい。これは縦書き・横書きの議論だけに限らず、である。

最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。

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