「きょうしろう」と申します。今回のテーマは、前回の投稿との関連が強い児童どうしのトラブルについての考察です。
学校なので、児童どうしのトラブルは毎日といっていいほど起こる。前回の投稿で「交渉人としての教師」の視点について触れたが、いくらそんな役割の大人がいたところで、火種がなくなることはない。まあ翻って大人社会を見ても同様なのだから、想像は容易だろう。
だが大人との大きな違いとして、謝罪の垣根が低いという点があげられる。「先に謝ると過失の割合が不利になるかも…」なんてことを考えない子どもたちは、自分の伝えたいことを相手に受け入れてもらえれば、大人より柔軟に、相手のいい分にも耳を傾けられるようになる。双方の主張を伝え合った後、かなり機械的ではあるものの「ごめんね」「いいよ」のやりとりで話し合いを終えるのが通常だ。その際の注意として「背中をぶっちゃってごめんね」「いいよ。ぼくも悪口いっちゃってごめんね」と、何について謝るのかを明確にさせる必要がある。「このことについて相手は怒っていた。それが分かったから、このことを謝ります」という、自分の中での総括と、相手への確認の意味を込めている。
教師としての経験が少ないうちは、この機械的なやりとりが、なんとも薄っぺらで表面的な謝罪に過ぎないように思えていた。形だけであってもとにかく謝りさえすればその場は収まる。だから内面の反省はさておき、表向きの「ごめんなさい」だけ繕っているのではないかといううがった見方である。
その見方は正しいかもしれない。だが、日々の中でそういったやりとりを無数に重ねるうち、次第にそのルーティンとしての謝罪は、目的が別のところにあるのではないかと思えてきた。
言質といえば言葉はきついのだが、つまりそういった意味が1つ。この児童は確かにこの点について謝罪した。そこには「相手へのつぐないの気もち」と「今後の行動を改めるという約束」が含まれている。つまり「悪いことをしたと分かったので、これからはもうしません」という意味である。もちろん、反省したからといって、もう二度と同じ過ちを繰り返さないなんて、そんな聖人は見たことないのだが、ここでしっかり「○○しちゃってごめんね」という謝罪の言質をとっておくことで、次に同じようなことが起きた場合に、反省させることが容易になる。「この前、君なんていったっけ?」の一言で思い出してくれるわけだ。
もう1つ、私が考える機械的謝罪の意義は「謝ったとき」「謝ってもらえたとき」の清々しさを体験することである。自分がほぼ過失のない被害者だったとして、しかも相手がそれでも自分を責めてきているとして、そんな状態で双方が「ごめんね」に至るまでには、やや道のりは遠くなりがちなのだが、それでもひもといていくと、まあ相手のいい分のうちいくらかは理解できないこともないという気分になる。故意ではなかった、またはほかのムシャクシャのはけ口にたまたま自分がなってしまった、なんてことを聞いていくうち、ちゃんと謝ってくれれば許してもいいかという気もちに変化してくる。
さらには、あのとき自分もつい怒って、口調が激しくなってしまったなんてことを思い出し、そこは謝っておこうかな、なんて気もちまで生じてくる。
その気もちの変化は、これまで経験してきたイザコザと、その後のやりとりの積み重ねがあってこそのことといえる。つまり、ちゃんと謝ってもらえたときのスッキリした気分を体が覚えているから、そして、自分も相手に謝ることで、よりスッキリすることも分かっているからこそ起こる変化である。
「仲直り」は、何も起きていなかった平常時より親密度が増すというのは、なんとなく納得できるだろう。学校という社会では、そんな体験をふんだんに積むことで「ちゃんと伝えて、ちゃんと謝れば、自分もスッキリするし、もっといい関係が築ける」という成功体験を体に覚えさせているのだと思う。
機械的な「ゴメンネ」「イイヨ」で結構じゃないか。その体験を積めなかった大人たちは、いまその何倍も世知辛い実社会で、日夜苦労しているのだから。
最後までお付き合いいただきありがたき幸せです。またお会いできますように。
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