「交渉人」としての教師

児童実態

「きょうしろう」と申します。現役の公立小学校教員として、日々の実践や考察をつれづれなるままにつづっています。今日のテーマは教師の役目の1つ「交渉人」についての考察です。

 学校が1つの「社会」であり、複数人が毎日、しかも長時間共生している場であるなら、当然軋轢や衝突、表に出ない行動など、いわゆるトラブルと呼ばれる類は起こってしかるべきである。教室で派手に起こるつかみ合いや、明らかに目に涙を浮かべてしゃがみこんでいる児童を見れば、そこに何かしらがあったことは明らかだが、場合により、というか半分以上のトラブルは教師が見ていないところで起こる。

 勝手ながら、そういった教師の目が届かない、かつ児童間の問題が起こる可能性が高いところを3つ挙げると…

 ・登下校

 ・出張や他の対応で、担任が不在の授業中

 ・放課後の学童保育

 といったところか。

目が届かないゆえ、問題が勃発しやすいといえば確かにそうだが、個人的な印象としては「教師の目を盗んで」という事態はまれであるように思う。そのとき同じ空間に教師の目があれば、どちらかが泣くほど、または誰かが痛い思いをするほどの問題にまで至らなかったのではないかと思えることがほとんどである。

つまり、子どもたちは影で悪事を働きたいのではなく、いつもと同じようにふざけていたつもりが、ちょっとした言葉のトゲや、手の力加減の稚拙さが原因で、いつの間にか相手をにらみつけたり、拳を握りしめたり、他の友だちを味方につけようとあれこれ画策したりする事態になっているように思う。

勝手な思い込みかもしれないが、そういった教師の目の範囲外での出来事であっても、イザコザの多くは教師の耳に即入ってくる。「先生、あのね、昨日の帰り道のことなんだけど…」と、声量を気にしたり、周りの目を気にしたりする様子もなく、屈託のない口調で教えてくれるのである。「告げ口」「友だちを売った」「裏切り」という概念もほぼなく、何か問題があれば、きっと先生に伝えた方がいい結果になる、そう考えてくれているように見える。

そういった声が寄せられたとき、教師はまずその情報源から、できるだけ客観的な事実と、その子から見た主観的な意見を聞き取る。当事者は当然複数いるのだが、基本は1人ずつ呼ぶ。多くは被害者(と思われる側)から話を聞くことが多い。そして次に相手の児童、加害者(同様)から話を聞く。その際「先生があの子から聞いた話と違うんだけど?」という展開にはしない。だが、話に一貫性があるかどうかは時間をかけてでも確かめる。同じ話を複数回させるのではなく「いまの話は、つまりこういうことかな?」と、より具体的な言葉でその場面を再現してみることに努める。あらかた話を聞き終えてから、さらに2つすることがある。1つは「話の内容の要約」である。いま聞き取った話を、教師の側が端的にまとめるという作業である。そしてまとめてから、最後にもう1つの作業として、「何か付け足したいことや、いい間違ったりしたことはないか」を確認するのである。ここをおろそかにすると、後で双方の話を突き合せたときに、何度も主張が覆るという事態が起こりがちになる。

場合により、その場で見ていた子たちからも話を聞くことがある。そんな友だちの目は、かなり冷静で客観的であるように思う。つまり、頼りになるのである。

こういう前段階を経るため、両者を呼んで互いの目の前でもう一度話を聞くという作業に入るのは、大体が昼休みになる。両者の主張がほぼ一致している状態でのご対面なら、話はごくスムーズなのだが、まあそんなことはかなりレアなので、その段階で教師は「ひょっとすると5時間目は自習の体制を敷いておいた方がスムーズかも…」なんてことを考えながら別室で当事者たちと相対するのである。

だが、教師と二人だけで話しているときと違い、いまはその場に「自分以外にコトの経緯を知っているもう一人」がいるため、先に聞いていた話と変わることもしばしばある。その変わり方が「さっきは思い出せなかったんだけど…」という前置きなら、両者の主張が多少は近づくことが予想される。

そうでない場合、つまり相手の前でも、先ほどの主張と変わらない場合、再度双方から話を聞き、食い違う点について、相手からの意見を求める。「たまたま手が当たっちゃっただけだっていってるけど、どう思う?」といった具合である。

結局のところ、教師の役目はどっちが正しくてどっちが悪者かを決定することではない。話し合いの目的は真実を突き止めることではなく、双方の気もちの折り合いをつけることである。だから私は、双方の主張を聞いたうえで、必ず最後にこう聞く。「君は相手に謝りたいことはある?」

頭に血が上った状態では「だってそっちが…」という視点でしか考えられなかった児童も、落ち着いた状態で、そのときの様子や気持ちを表すのに最適な言葉を探しながらであれば、しっかりと自己を振り返りながら話をすることができる。そうであれば、自分がした行動の中で、よくなかった点に目を向けることはそれほど難しくない。

だからほぼ確実に「いやな言葉をいっちゃって、ごめんね」「いいよ。ぼくも先に手を出しちゃってごめんね」「いいよ」といったルーティンで話を終えられる。機械的な謝罪かもしれない。一時的な休戦に過ぎないかもしれない。それでもそのときに味わった「スッキリした」の気もちは本心だと思う。教師は裁定役ではなく、落としどころを見つけ、双方が「話ができてよかった」と思えるように運ぶことが、その役割なのだろう。

 最後までお付き合いいただきありがたき幸せです。またお会いできますように。

コメント

タイトルとURLをコピーしました