場合による。確かにそうでしょう。飛沫を防ぐ効力はあるという実証の結果があるいる以上、完全な「否」はありえない。だが完全な「是」とするのも問題がありそうだ。ここでは大きく2つ考察してみたい。
1点目。冒頭の「場合」というのが、時間と空間だけでなく、児童個々の事情や意思によって左右されるという点が挙げられる。
だんだん日ざしも強くなり、息苦しさが増す季節になれば「屋外では基本的に外す」という指導が必要となる。だが、ウィズコロナの2年半で、児童はマスクの着装が普通のこととなっているため、外すことに躊躇がある子たちもいる。「つけるのが普通」の昨今で、体育の時間に急に一人の体調が悪化したという事態になれば、担任は「どういった指導をしたのか」「マスクを外すよう声かけをしたのか」を問われることになる。運動開始時に一言「外したければ外してもいいよ」と伝えたとしても、果たしてそれで「指導した」という意味に捉えてよいのだろうか。私自身、もし体育の後で「先生、頭痛い…」なんて声をかけられたら、その子が運動時にマスクを外していたかどうか、やはり気にするだろう。個々の意思の尊重だけで済まない事態が考えられるのである。
余談だが、新型コロナウイルスが世に現れる前にも、冬のインフルエンザの流行時期には、多くの児童が不織布マスクをして登校していた。だが、一日中ずっとマスクをして過ごすという習慣がなかったため、一度外したマスクをいつの間にか紛失し、それでもほとんどの児童は気にせずに生活していた。そのため、毎日教室の床はマスクの落とし物だらけだった。
いま、マスクの落とし物はまったくない。「つけているのが当たり前」の風潮は子どもたちの社会にもしっかりと浸透している。
そこに2つめの問題が垣間見える。つまり児童がフルタイムマスク着装の生活に慣れすぎてしまったことである。そもそも感染予防として社会全体に流布したマスクだが、感染状況が落ち着いてきたとしても、いま現在マスク不要論が大きく取りざたされることはない。これは年代にかかわりなくそうだと思われる。
高学年になると、たとえ小学生でも容姿は大きな関心事であり、マスクあり・なしで、見栄えが変わることを自覚する児童も多数いる。マスクをしているときの方が安心、口元を隠している方がよく見られるというのは、たとえ自我確立前の世代であっても、避けられない葛藤なのだろう。
ちなみに低学年はといえば、そもそも入学当初から「マスクをしましょう」が当然だったため、むしろしない方が違和感といった様子で毎日を過ごしている。
多少息苦しくても、マスクをしている方が健康面でもメンタル面でも安心して過ごせるというのは、考え方によっては「素の自分」に対する自信のなさの表れだといえる。
ここまで考えても、結局マスクの是か否かは「場合による」としかいえないのだが、簡単に場合で左右されていては、子どもに危険が及ぶ。身体的な危険だけでなく、いつの間にか自己肯定感を下げてしまうという危険も含む。
今後は、意図的にでも場面を区切って、子どもたち一人ひとりに「マスクを着けない自分」に慣れさせる必要があるだろうと、いま思っている。
最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように!
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