「きょうしろう」と申します。年々筋肉量が減少していることに抗おうと、近いうちに決意する予定の現役小学校教員です。
学校の卒業イメージの中心に長く君臨し続ける桜ですが、なぜこれほどまでに日本人の心を捉えるのか。今回は、自分なりの桜の見ごろのこだわりを、卒業に寄せた視点で深堀りしてみます。
毎年その時期になると、自宅の周りを歩いていても、通勤路でも、遠出の電車の車窓からも、とにかく桜のうすピンクが常に視界にあるというほど、日本はこの花一色になる。寒さが苦手な私にしてみれば、桜が咲いてくれる温かさが待ち遠しく、咲く陽気をうれしく思うのも、また毎年のことだ。
桜よりひと月ほど前に咲き始める梅と色味が似ているので、近づいてみて「やっぱり梅か…」と少し残念に思うのも毎年のこと。梅だって気品も色味も桜に劣るわけではない。香りでいえば梅の方がかぐわしい。だが「春の到来」を待ち遠しく思う潜在意識が、梅より桜という思慕につながっているのだろう。
こうしてほぼすべての日本人の期待を背負って春を待ち、ここぞとばかりに咲き誇るのがこの花。咲き始めれば一気にあちこちで見頃を迎えるので、わざわざ足を延ばして花見に行かなくても日本中で見られるが、なるほどこの時期になると、並木として植えられている遊歩道や公園などでは、人の往来や来訪も他の時期より多いように思う。みんな楽しみにしていたんだね。
桜を見るたびに感じていたことで、自分では決めかねていたことがある。まあ、どうでもよいことこの上ないのだが、どの段階の咲き方がいちばん好みかということ。
「満開」が本命だが「七分咲き」も悪くない。中には少し葉が混じり始めた時期のものが好きなんて人もいるかもしれない。私はしばらく前から、このどうでもよいことを決める基準が見つからなくて、あれこれと考えながら桜と相対していた。
自分の勝手な尺度でいえば「どれも好き」というより「どれも少しだけ物足りない」のである。葉が混じった終盤の桜は、確かに終わりが見えてもの悲しさがあるのだが、満開の桜を見ているときでさえ、足元に無数に舞い散っている花びらを見るにつけ、同じような儚さを感じていたのである。
だとすれば、七分咲き程度でどうかというと、間近で見たときの抜け感というか、ボリュームがうすい印象があって、それはそれでやはり物足りない。
というわけで皆さんはどうでしょうか。
でも私、気づきました。腑落ちしました。
結論からいえば、七分咲きがもっとも美しいと。そりゃもちろん好みなのだから、それぞれでいちばんがあって当然なのだが、個人的には「これからさらに華やぐぞ」という黎明期というかブレイク直前のこの段階がもっとも好みに近いのだ。
これまではそこにも物足りなさを感じていたのが、このたびパラダイムシフトに至った経緯はといえば、先日犬の散歩で夜に見た桜がきっかけ。暗い夜道で、私の首から下げた小さな灯りに照らされた桜の木は、その存在がとても力強く思えた。灯りの当たっているほんの一部分の色づき具合しか分からなかったのだが、美しさはむしろ焦点化されて際立っているようだった。
その二日後、今度は昼間の散歩で同じ桜の近くを通ると、やはりその木は、変わらぬ力強さで華やかに咲き誇っている。犬を促して再度その木のすぐ近くまで行ってみて驚いた。
満開どころか、まだ七分にも至っていないほどではないか。そこここにつぼみが残っていて、その向こうに青空が抜けて見える。
つまりこの咲き具合でも、遠目で見る限りはほぼ満開の華やかさと変わらないわけだ。桜って遠くで見た方がきれいなのかも…。なんて考えてふと思い至ったわけです。
「未来に向けて力を蓄えている姿こそ、いちばん力強くて、いちばん華やかで、いちばん美しいのではないか」と。あらら、ここでようやく学校つながりです。やっぱり子どもの力強さや華やかさには敵わないってことですね。その蓄えた力を発揮する第一弾が、ちょうど満開の時期と重なる卒業式での晴れ姿なのかもしれません。
自分自身を顧みると「6割尽力」をモットーとしているので、余力を残した状態を「遠目から」眺めていてほしいと、知らず知らずのうちに願っているのかもしれません。ごく間近で凝視されない限りは、全力満開に近い状態に見えていることをひそかに願う春です。
今回もまた最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。
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