「きょうしろう」と申します。このところ、左目のかすみに悩まされることが増え、定期的な眼科受診を余儀なくされている現役小学校教諭です。症状が落ち着いているときには、つい服薬をおろそかにしがちですが、さすがに右と左で明らかに見え方が違ってきたときは一日三回ちゃんと薬を飲み続けました。
そこで気が付くわけです。忘れがちなのは、単に気持ちで軽んじていたことだけが原因ではなく、忘れないための「仕組み」を準備していなかったからだということに。慣れてしまえば、大した仕組みなんて必要なくて、キッチンとリビングをつなぐ動線上にピルケースを置き、一日分3粒をあらかじめ入れておくだけのこと。そもそも眼科医さんいわく、服用しているその錠剤は特効薬というわけでないため、多少飲み忘れたところでそれほど急激な悪化があるわけではなく、逆にいえば、忘れずに服用していたとしても、劇的に改善されるわけでもない。まあ、それでも「もっとちゃんと自己管理すべきだった!」という後悔をしなくて済むというメリットは大きい。
ここからようやく本題です。今回のテーマは、同じく子どもたちにとっても「仕組み化」が有効極まりないのだということ。むしろ無垢ゆえに、大人よりよっぽど定着率も高いし、疑問も抱かずに日々のルーティンを遂行することができる。逆にいえば、悪習慣やよからぬ情報にも染まりやすい一面もあるということ。なので教師の側で、何をどれくらい児童に課すか、検討や検証を要することになるわけだ。
「児童は無垢」というのは確かだが、それでも子どもたちは、ちゃんと面倒くさがる。何か新しい取り組みを導入しようとする際は、自分に直接かかわる負担がどの程度増えるのか、ちゃんと推し量ろうとする。だが無垢ゆえに「新しい負担≒新しい挑戦」という捉えをする子たちが大半となる。その過半数勢力に埋もれる「そういうのはあんまり…」という少数派が、それでも多少なりとも前向きになるための方策が2つある。いえいえ、本当はもっとあるでしょうが、とりあえずこの場では2つ挙げる。「やるメリットの実感」と「習慣化に向けた仕組みづくり」の2点だ。
それが学習課題的な取り組みであれば、正統派として至極まっすぐに知識や考え方の幅が広がるというメリットを挙げるのもいいし、もっと現金に、ご褒美や何かしらのサービス、ポイントアップなどをちらつかせることもあるだろう。「そういうことなら、まあ悪い話ではないな…」と思ってもらえれば1つめの目的は達成となる。
そして実際にその取り組みがスタートした後には「円滑」かつ「持続可能」であることが求められる。子どもたちにとっては「初めて」でも、教師の側がほぼ毎年同じ取り組みをしてきたなんて場合は、仕組み化がすでにできあがっているので、それほど混乱がないのだが、まれに教師にとっても初めて導入する取り組みという場合もある。であるなら、こちらが想定していなかった不具合もまま起きたりする。
そんな経験も含めて、ある程度教師を長く続けている身から助言をするとすれば、露見した不具合は仕組みが固まる前に、一つひとつつぶしていくしかない。多少のバグなら、まあ慣れてしまえば気にならなくなると思いがちだが、そういった不具合は1つではおさまらないことの方が多い。一度目をつぶってしまうと、2つ目、3つ目のバグが見つかったとき、結局最初の不具合に立ち返って全部を修正する事態になる可能性がある。その頃にはもう、子どもたちは現状のやり方に慣れてしまっているので、だったら不具合に気づきつつも、全部スルーする方が、まだ混乱が少ない、という選択をしてしまうのである。
それなら、教師も子どもも、まだ試行錯誤の状態のうちに「やっぱりこうした方がスムーズだよね」と、早めの修正をかけた方が傷は浅くて済む。
自分の経験でいえば、以前このブログで記した「漢字小テスト」や「短縄二重跳び達成」のシステムが典型となる。
こうして作り上げたシステムは、翌年度以降も、教師にとって貴重な引き出しとなって蓄積されていく。仕組み化の一番のメリットは、再現性の高さである。初めは稚拙で不具合が多いシステムであっても、工夫を加え、修正を加えていくうちに、自分らしいオリジナルが固定化していく。固定化するころには、すでにシステムとしてだけでなく、それを導入するメリットについても、子どもたちが納得するだけのものとなっていることが多い。
そうでなければ、ただの自己満足である。まあ「自己」が「満足する」ことって、実は何より大切なことだとは思うが。
いえいえ、どうせなら自己以外も満足させましょうよ。と、そんな熱意と創意工夫あふれる仕組みが、いまこの瞬間にも至るところで生まれつつあるのが、日本の学校なんです。
今回もまた、最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。また、お会いできますように。
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