「きょうしろう」と申します。ここ何年も海外に出ていなかったため、飛行機の搭乗手続きや日本語が通じない相手とのやりとりが億劫になりかけていたのですが、先日久しぶりに国外に出たことで、やはりその価値や楽しさを思い出した壮年現役小学校教師です。
今回のテーマは、自分自身が満喫してきた上海の「夢の国」で、ふと感じた「この感覚って学校と同じでは?」という気づきについての私見です。このブログを開設して以来、学校現場以外で感じたことの考察は、初ではないかと思います。お付き合いください。
勝手な決めつけかもしれないがテーマパークの存在意義は「楽しませること」だと思っている。その「楽しませてもらえる場」に身を置くと、見渡す限りの華やかな装飾や荘厳な建築物に目を奪われ、それぞれのエリアに合わせた素朴であったり、近未来的であったりする音楽に浸り、いつの間にかその世界にいられるうれしさに高揚していくのが常道である。
毎日身を置いている学校では、児童も教員も、さすがにそこまでの高揚感を味わうことはほぼない。まあ、運動会や学習発表会の本番や卒業式当日などであれば、そこに大きな感動はあるものの、その感動の本質は「児童が本気になったカッコよさ」だったり「これまでともにしてきた苦労の数々が報われたようなうれしさ」だったりするので、テーマパークが醸し出す「どうぞこの世界を心行くまで楽しんでください」といったサービス的な高揚感とは、やはり本質は異なっている。
だが先日はじめて訪れた上海の夢の国において、少しおかしな感覚を味わうことになった。これまでも何度となく舞浜の夢の国や大阪の元気特区には赴いていたが、そのときには感じたことのない感覚だった。
「そちらが提供してくださるお楽しみの数々は十分に満喫していますよ。でもそれだけじゃなく、そちらが意図していない形の楽しみ方も、自分たちは味わえているんですよ」という感覚。月並みになってしまうが「楽しみ方はゲストの数だけ」といったところか。
これ、日本だって同じように感じられるはずなのに、これまでその印象をもたなかったのには理由がある。理由というより、違和感や差といった方がしっくりくるのだが、向こうのパークを訪れている現地の方々は、とにかく他者を気にしないという国民性が強いのだ。「他者の目」「他者の言動」さらには「そこにできている人だかり」まで、とにかく自分とそことの間に関心や関連性を見出そうとする気配がない。
だから家族サービスに疲れたお父さんは、双子の赤ちゃんが乗れる横幅の広いベビーカーに身を預けて眠りこけてしまうし、そんな光景がそこここで見られていても誰も二度見することなどない。
「自分たちはいまこのエリアのこのアトラクションに向かっている」のであれば、レアキャラクターを取り囲む一団に遭遇しても、足を止めることも、横目でチラ見することもしない。
逆にいえば、その時間のそのアトラクションが激混みだったとしても、時間をずらしたり、他に回ったりすることもきっとないのだろう。
「ここではこう楽しむのがおススメですよ」なんていう先方の意図なんて気にすることなく、自分の楽しみ方は自分で決めるという意思決定の思考が、四千年の長きにわたっていまに根付いているということか。
そこでふと思い至った。「楽しませてもらう場所」というくくりでいた自分は、実はかなり視野が狭かったのではないか。楽しみ方を自分で見つける。損得度外視で自分の決めた楽しみ方を貫く。そんな「粋の域」に気づくきっかけになったのが、初めて訪れた異国の夢の国だったわけだ。
だったらそれって学校と共通している、とそこで思ったわけです。「楽しませてもらう場」でも「与えてもらう場」でもなく、学校はまさに「自分で楽しいことを見つける場」「自分で楽しいことをつくる場」であるべきでしょ。
それに色を添えるような「楽しみの演出」くらい、先生たちは喜んでやりますよ。夢の国のキャストさんたちに負けないくらい。子どもたちが楽しみ方を見つける手助けだってするし、なんなら子どもたち以上に先生たちが楽しんじゃうことだってありますよ。
でもやはり、学校の楽しさは、子どもたち自身で増やしていってほしい。
まあおそらく日本のテーマパークだって、そういう楽しみ方を率先している方々がいるから、時をへても廃れないのだろうし、運営側だって、そこに甘んじることなく「さらに」「もっと」楽しませようという設備投資やキャスト教育のブラッシュアップを繰り返すのだろう。
暗くなりかけた異国の夢の国で、なぜか日本の学校の在り方について思いを馳せていた長期休暇でした。
今回もまた最後までおつきあいいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。
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