夢を語ることの是と非

児童実態

「きょうしろう」と申します。「夢」という言葉の響きに心動かされる熱量が、年を追うごとに減退している気がする現役小学校教員です。ですがまだまだ実現しきれていない自身の複数の夢がPCの中に備忘として温められています。

今回のテーマは、翻って昨今の子どもたちの「夢」事情はどうなのかという点の深掘りです。以前関連したテーマで「夢の方向性」について記しましたので続編となります。お付き合いください。

ネットのニュースで読んだ記事で、私より二回りほど若く見える女性、つまり子育て真っ只中の世代らしき方の談が載っていた。私と同業者のその方いわく、いまの子どもたちは将来の夢を語らなくなったとのこと。未来への壮大な希望よりも、現実を直視し、堅実さを求める傾向が強まったのか、それとも子どもたちなりに、夢を語るという姿勢に対する恥ずかしさを感じているのか、はたまた不言実行を地で行こうとする態度なのか、いずれにせよ、これからの世代を生きる子どもたちから、将来の夢を聞く機会が減っているという実状を「残念」と思う大人が大半だろう。

でも私は、そこに含まれない一人です。現状を悲観しているわけではなく「その傾向はいまに始まったことではない」と知っている一人なんですね。

四半世紀を超える教員生活だが、実は自分も、教員採用試験の面接で「いまの子どもたちに、夢を語るすばらしさを実感させたいです!」なんてことを堂々と語った覚えがある。つまり世代を超えて「いまどきのコドモって…」という捉えは為されるというわけだ。いつの時代も、自分世代を基準にするしかないので、それより後発組のことを、軟弱で不甲斐ない世代と思いたくなるものなのでしょう。

だが教員を長く続けていると、世代を超えた普遍性が見えてくる。「十代に達した女子児童はグループへの帰属意識が芽生える」やら「男子児童は校外学習の途中で道に落ちている棒を拾いたくなる」などなど。個人差はあるものの、大まかな傾向として永続性があることを自身の経験則で知っている。「夢を語らない」というのもその1つ。

いえいえ、語らないのではなく、語り方が「大人が想定している表現と異なる」という方が正しいように思う。

あくまで私的な予想だが、産業化社会から情報化社会へ移行し、これからの世代はむしろ実力以上に「要領のよさ」や「効率性」が重んじられる社会を生きることになる。となると、壮大な夢に向かって地道な努力を継続し、やがて大輪の花を咲かす一握りを目指すより、ある程度のことをチャチャっと済ませて、そこそこおいしいところをもらえる大多数を目指す方が理に適っていると考えるのも自明かと思われる。

若者を中心に投資熱が上がっているという現状も、そういった流れの象徴だろう。つまり、いまの世代にとっての夢とは「大それたものを描かずとも、それほど労力をかけずに、人並みの生活を享受できればよい」というあたりに落ち着く。でもそれって、いままでのどの世代にも当てはまってきた幸せの形ではないですか?

ということで、結局先に記した「どの世代も夢を語りたがらないという普遍性」は真理となるわけです。もちろん、個人差はありますし、投資熱だけでなく、若者の「起業熱」もかつてないほど高いのも事実です。先発組の一人として、もう一度いまの時代の若者になってみたいという気概もないわけではないほどです。熱く夢を語ることはもちろん是であるが、あえて語らずとも、情報化社会に溶け込み、自分なりの幸せの形を考えつつ、他者からは見えにくい努力や、こだわった生き方を貫徹していくことが、これからの世代のデフォルトになっていくのでしょう。

今回もまたお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。

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