教師個々の「苦手」と「得意」にまつわる割り切り

教員あるある

「きょうしろう」と申します。プライベートを充実させることに熱心なのは間違いないのですが、仕事以外に向ける時間とエネルギーが増えるにつれ、仕事にかけるタイパ&コスパも上昇している実感が強い現役小学校教員です。視野を広くもつ、仕事以外にも尽力する、そんなことを同僚諸氏にも熱く語りたいと思っております。

今回のテーマは、冒頭のあいさつにも多少関連ある、教師の得手・不得手についての考察です。お付き合いください。

以前勤務していた学校の校長と会話していたときのこと。「教師それぞれに苦手があるのは当然で、自分もずっと音楽の指導がそうだった」と、その校長は普通に語ってくれた。昭和世代の先達で「教師たるもの、すべてに精通していてなんぼ」という考え方が残っている人だと思っていただけに、その言葉はやや意外な印象をもったことを覚えている。実際、その校長とは付き合いも古く、学級担任をしていたころから「なんでもこなせる人」という思い込みがあっただけに、余計そう感じたのだろう。

他にも、傍目からは「スーパーティーチャーそのもの」に見える方々は、周囲にたくさんいらっしゃる。授業展開のすばらしさ、児童のノート記述スキルを底上げする手立て、学級経営の妙、カリスマ性、そしてド直球だけを放り投げる熱量などなど。そういった先達や同僚に日々囲まれていると、自分の小ささや不甲斐なさを思い知らされることが常となる。だんだん自己肯定感が低くなってしまうのが、私を含めた大方の教師に共通する悩みではないかとも思われる。

一方でそういったスーパーティーチャーと呼ばれる人たちも、実は同じ悩みやコンプレックスを抱えて、日々の業務を懸命にこなしているということを、先の校長の話から垣間見たわけである。確かに、見事な授業展開を見せてくれる先生を観察すれば、毎日遅くまで教室にこもって児童のノートの隅々にまで目を通し、どの考えを、どの順番で拾おうかと頭を悩ませているし、カリスマ的な魅力で児童を引き付ける先生は、その陰で自分と反りが合わない児童に対し、どんな言葉と態度で語り合えばよいか、どんな気持ちで向き合えばよいかで悩んでいる。あらら、この業界って悩んでしきりがデフォルトなのですね。

そこでこう割り切るわけです。「人間だもの!」

そして改めて「教師はスーパーマンではない」ことにやや安心感を抱くのである。自分はといえば、ちょっとしたことを見落として、後で挽回するのに何倍もの労力を要したり、どうしてよいか分からないことを他者に尋ねるタイミングを逸し、そのまま後回しにしてしまったりという悪癖が抜けない。

だがその一方で、プライベートをしっかりと充実させ、仕事上の優先事項とタイムパフォーマンスとのバランスをとりながら日々の仕事を軽やかにこなしているという自負がある。これってある意味「スーパーティーチャー」ではないか。

というわけで、誰でも自分なりのスーパーな一面を自覚することで、不得手を凌いでいるという職場が、学校という組織です。今回もまた最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。また、お会いできますように。

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