「きょうしろう」と申します。成果を出している人、またはその前段階として顕著な努力を継続している人などを見ると、自分の不甲斐なさに落ち込んだり、意味のない言い訳を考えたりすることが、壮年期になったいまでも多々ある現役小学校教師です。
なので今回のテーマは、あえて自分自身が苦手な「他者への称賛」と「自分へのエネルギー変換」について、あれこれ深堀りしてみたいと思って選びました。お付き合いください。
いまさら驚くことではないが、毎日触れている子どもたちの多様性ぶりは、やはり著しさこの上ない。人間関係についてはさらにそれが当てはまる。自分のことをさておいてでも友だちの手助けを優先しようとする子もいるし、10やってもらっているのに、やってもらえなかった1にばかり目が向いてしまう子もいる。同じことをされたりいわれたりしても、その相手が誰かによって、受け取る印象が大きく異なってくるのも、大人と変わらない。教室は確立した1つの社会であることがよく分かる。
それゆえ学校とは、そういった児童の多様性に負けないほど、指導の方針も多面的?だと思う。学校や教室が確立した社会であるがゆえ、基本的には「みんなで力を合わせて」「困っている人は助けてあげて」なんてことを謳う。共同生活をしているのだから、そうでなければあまりに世知辛いッスから。
だがその一方で「自分のことは自分で」という指導も欠かさない。特に避難訓練など命に関わることや、身の回りの生活習慣についてはその傾向が強い。教師の指導も、ときにより「人と違うことでも正しいと思うことはやりなさい」だったり「周りをよく見て、友だちの迷惑にならないようにしよう」だったりする。反対のことを指導していながら、それほど違和感を抱かないのは、どちらにも価値や必要性があることを、経験として体得しているからであろう。
だがそれは、体得が済んでいる大人の側の言い分であり、受け手の児童は、その相反性をうまいこと咀嚼できているのかといえば、私はそれを確かめたことがない。なので児童が、自分と他者を照らし合わせることを肯定的に捉えているのか、否定的に捉えているのか、それとも場合によりその使い分けができているのか、不確定なままで指導していることになる。近々確かめてみよう。
冒頭に書いたように、成果を出している他者を見たとき、多くの人がそれを称賛し、羨望のまなざしを向けたり、惜しみない拍手を贈ったりする様子を見ていると、同じように称賛の気持ちを表せない自分の小ささを痛感することが、私自身にはある。その感情は「悔しさ」「自己嫌悪」など、どれもマイナスな言葉で表せてしまう。だが一方で、惜しみない拍手を贈っている多くの方々は、同じ感情を持っていないのだろうか。もし、単純に称賛の気持ちだけなら、例えばテレビでスポーツ観戦をしているような状況なら、優勝したチームの選手に「感動をありがとう!」なんて気持ちで清々しく拍手は贈れそうだ。だが、観衆や第三者といった立場でない場合、つまり自分も当事者である場合、そこに悔しさや不甲斐なさは少なからずあるはずである。同じことを目指し、相手の方が自分を上回る成果を出したという結果を、心安らかに受け入れられるのなら、それは穏やかさではなく、本気の度合いが少なかったことを意味することにならないか。
だとすれば、後はそのマイナス感情を心の内にしまっておくか、表に出してしまうかという差になる。「まあ、今回はちょっと別の用があって忙しかったから…」なんて自分への言い訳も、しかめてしまいそうになる表情筋も、その場ではストップして、一言「おめでとう」「自分もうれしいよ」なんて声をかけられるなら、それが一番カッコイイと思う。「私もあとに続くよ」「すぐに追い付くよ」なんて本音の一言を添えると、さらに相手に伝わる誠意が増す。
そう考えると、教室で友だちに「おめでとう」の声をかけ、笑顔で拍手してくれる子どもたちって、そこに悔しさを伴っての上であれば、なんていうか、まるで「天使」だと思う。毎日君たちに救われています。
そんなわけで、私も一皮むけたネオ壮年に近づこうと思います。今回もまた最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。また、お会いできますように。
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