「きょうしろう」と申します。日々、子どもたちから寄せられる相談や軽口に対して、当意即妙な切り返しができた自分に、ひそかに酔っている現役小学校教師です。今回のテーマは、そういったやりとりや切り返しの基礎となる、心情の深掘りや分析についての「教員あるある」です。
一言でいえば、教員は「子どもの相談に乗るのはプロだが、自分の相談に乗るのは三流だ」ということ。児童からは毎日のように「友だちとケンカした」「お前とは縁を切るっていわれた」「何回も注意してるのに、全然聞いてくれない」などの訴えが教師の下に届く。
それらの深刻度を分析し、いくつかの段階に分けるのが最初の作業。「そうか、でも君は気にしないでこれまでと同じことを続けなよ」なんて一言で済ますのが軽度の場合。やや深刻さが増すときには、状況の聞き取りをくわしく行ったり、その場に同席していたほかの児童から追加で話を聞いたりする。そういった外堀を埋めた後で、訴えてきた児童と、その訴えの相手とを交えて事実確認を再度行い、双方の言い分も聞きとったうえで、ではお互いにどうしたいかを聞く。教師自身がどちらかの側に傾いた状態で「それってやっぱりひどくないか?」なんて口をさしはさむこともないとはいわないが、かなり稀である。
互いの主張を聞きとったうえで「相手はこういってるけど、君はどう?」なんて促すと「この行動は謝ってほしいけど、ぼくもあの一言はよくなかったから謝る」なんて落としどころが見つかるのが常である。
ところが翻って我が身を見つめてみると、自身の問題に対峙しているときには、この落としどころが見つけられないというのが、今回の吐露なのです。
大人特有の「思考の偏重」「パラダイムの固定」がそうさせるというのも一理あるのだが、自分としてはもう一つ、大きな要因が思い浮かぶ。子ども社会にあって、大人にないもの。それは「中立な指導者」つまり教師の存在である。
こういうと、教師がいて、子ども社会の円滑さが保たれているように聞こえるかもしれないが、その見立てはおおむね正しいと私は思う。だからこそ、毎日子どもからの相談や訴えは教師のもとに届くのであり、また、届けてもらえるような関係を築く気遣いを継続しているのだから。
実際に、日々妻と会話するときを例に思い返してみると、子どもどうしのトラブルのときと変わらないような些末事が、自分自身のトラブルの発端となっていることに気づかされる。ちょっとした気遣いの欠如だったり、悪意でいったわけではないことが分かっている一言に苛立ったり、「人のことを責めてるそっちだって同じじゃないか?」なんて感情に支配されたり。
こんなとき、落ち着いて双方の言い分を整理してくれる中立な誰かがいてくれると、双方のとげとげしさも和らぐし、相手への要求の前に、自身の言動を振り返る心のゆとりも生まれるだろうに、なんてことを思ったりもする。
本来はその役目を毎日私自身が軽快にこなしているのだから、ここでこそそのコーチングスキルを発揮すればよいのだが、なぜでしょう。自分事となると、からっきしでして、お恥ずかしい限りです。
子育て真っ最中の親御さんもきっと似たようなものでしょう。きょうだいのケンカには落ち着いて対処できるのに、パートナーとのやりとりとなると、まるで子どもの主張と変わらない状態なんてこと、ないですか。
セルフコーチングなんて言葉もあるそうなので、近いうちにそのスキルを学ぼうと思っている現役教師の吐露でした。
今回もまた、最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。また、お会いできますように。
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