「きょうしろう」と申します。オンラインでできることはオンラインで済ますという風潮が、とても肌に合っている現役小学校教師です。「子どもたちには生の体験こそ根付く」というのも事実ですが、そもそも「やった方がいい」と思われることを全部取り入れようとしたら、時間的にも労力的にも破綻を来すことは明らかなのが学校のカリキュラムです。
今回のテーマは、そんな中でも取り入れ続けている「生体験」の1つである校外学習の意義についての考察です。
コロナ禍ですっかりおなじみになった「バーチャル〇〇」「オンライン〇〇」は、個人的にとても可能性の広がりが感じられるものだった。休校期間中に行ったオンライン授業は、むしろなかなか教室に顔を出しづらい児童にとって、これまで行われてきた普通の対面授業以上に価値あるものだと思えたかもしれない。教師が自宅療養で欠勤となる場合でも、それほど体がつらくないのであれば、自宅から授業を配信することだって可能だろうにと、何度となく思った。人手不足が深刻な現場で、さらに体調不良やら出勤停止やらで不在となる職員が出てくるとなれば、そのしわ寄せは教室にいる児童に来ることになる。担任不在の学級で、児童に急ごしらえのプリント課題や自習を課す日々が続くのであれば、ある程度体力を回復した教師が、自宅からオンラインで授業をやってみるなんて、十分アリではないだろうか。実際に自宅療養を複数回経験した一教師の本音です。
では本題です。そういったオンラインの可能性が十分アリということなら、今後むしろ生体験・実体験の機会は削減していってはどうかというのであれば、それはナシだ。苦肉の策、次善の策としてのバーチャルは大いに活用すべきだと思うが、それがそのまま実体験の代わりとなるかといえば、そうではない。
視覚や聴覚、触覚、ときどき嗅覚までも刺激する実体験での学習は、やはり子どもの記憶への残り方が別次元である。
学習内容への理解の深さという点だけでなく、現地までの徒歩や交通機関を用いての行程、友だちとのやりとり、途中で遭遇したハプニングなど、どれも生の体験だからこその醍醐味であり、それらも含めての学びである。
教師の側にも収穫はある。外に出たことで垣間見える児童の実態への気づきがそれ。普段ははきはきと活発な意見を述べる積極派の児童が、外部の方との交流の場面では、固く口を閉じたまま伏し目がちで過ごしていたり、逆に、次々と多面的な見方を発揮し、多くの発見や意外な切り口の質問を投げかけたりと、こちらを驚かせてくれるのも、普段と違う場での学習時あるあるといえる。
こちらとしては、できるだけ後者の児童が増えてくれることを願うのだが、そのためにはいくつかの仕掛けや布石が効果的である。
1つめは、当たり前のことだが、事前学習である。行ってその場で学ぶのだから、児童の驚きや発見を妨げないよう、あまり事前の情報を与えないという考え方もある。だが私は、それに関しては出し惜しみしない。むしろ「先生だけはもう知ってるぜ」くらいの雰囲気で、多少もったいぶりながら資料を提示したり、そこから児童自らが見つけた疑問について考えさせたりする時間を、多めにとりたいという考えである。
2つめの布石は、その現地学習、または交流学習における「児童にとっての到達点」を明確にしておくこと。つまり学習の目的である。何を学びに行くのか、教師だけでなく、児童個々が頭に入れた状態で当日を迎えることで、その時間の参加態度が変わってくる。つい逸脱しがちな数人がいたとしても、そうはならないしっかり者がブレなければ、大きく崩れることはないし、逸脱少数派も何をしに来たのか、思い出すきっかけになるかもしれない。
事後の振り返りで、その目的が果たせたかどうかを確認することで、ノートやワークシートへのまとめ方の質も変わってくる。普段と違う学習なのだから「楽しかった」という気持ちはより強く持ってほしいとは思うが、ワークシートにその言葉のみが書かれているのであれば、学習の質としては高いといえない。
「何を学びに行ったのか」「その結果はどうだったのか」「新しい疑問や発見はあったのか」「それを解決するための手立ては何か」などなど。そんなことが振り返りとしてまとめられていると、うれしくなるのが教師です。
最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。また、お会いできますように。
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