「きょうしろう」と申します。ここしばらく、体のあちこちのかゆみと戦う日々を過ごしている現役小学校教員です。ごまかしや「気のせい」が効かないほど、あちこちに不具合が生じてくる年齢だということは、本人も周りもよく分かっている昨今です。
今回のテーマは教師主観の「失敗」にまつわる考察です。お付き合いください。
「教師はスーパーマンではない」とは、私が尊敬する先輩教師の方が、以前同僚をねぎらうために使った言葉である。ともすればオールマイティを求められ、しかも失敗が許されない緊張感にさらわれる日々の中、当時教頭職にいたその先生が、ふと発してくださったその一言に、体の力が抜けていくような気分を味わったことを思い出す。「そりゃそうだ。教師も一人の人間でしかない」と、当たり前のことを改めて感じた気がした。
それ以来、自分自身が何度かそのフレーズを持ち出して具申したり、後輩をねぎらったりしたこともある。
しかしそれでも、自分自身が何かしら失敗をしでかした際には、このフレーズで開き直ったことはない。つまり自分自身は「教師に失敗は許されない」という鎖で自分を縛ってきたということになる。
いえいえもちろん、そんなこといいながら失敗ばかりですよ。
ただ、失敗からの学びは必ず存在し、同じ轍を踏まぬための改善や予防策を講じてきたという自負はある。なにしろ教師がやらかす失敗というのは、基本的に「対子ども」であり、相手がまだまだ未熟ゆえ、リカバリーに多くの時間と労力を要する。
理科の実験や給食の配膳などなど「何かが起きたら余波が大きくなる」という状況で、これまで多くの「そうきたか」という想定外は実際に起きてきた。その出来事と対応を経るたびに、できるだけその労力を未然に防ぐ方向に近づけようと考えるのは必然である。
教師が「できるだけ失敗したくない」と考えるのは、そういった教師側の都合による部分が大きいのだが、その一方で子どもたちには「失敗は大いにウェルカム!」「教室はまちがうところだ!」と、声高に告げているのも事実。もちろん、最終的にはどんな取り組みでも成功体験を味わわせたいとは思う。だがその前段階で、たくさん失敗を重ねたり、それでもあきらめずに継続したり、改善の試行錯誤を繰り返したり、スモールステップの上達を自覚したりといった、多くの学びを経験させたいというのも本音としてある。若い世代にとっての失敗って、甘酸っぱい響きだなと壮年はうらやましく思う。
結論として、教師の失敗は、そのリカバリーや対応を自身で負うことが前提となるため、避けられるものなら避けた方がよいもの。一方、子どもの失敗は、責任の追及以前に、単なる成功へのステップとしての必須事項として歓迎すべきものという捉えになる。
いえいえ、やっぱり大人になっても、教師であっても、そこは社会全体で「失敗からの学びは大きい」というスタンスに立ってもよいのでは。なにしろ教師は「スーパーマンではない」のだから。
今回もまた最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。また、お会いできますように。
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