子どもの夢に対する大人の捉えについての私見

児童実態

「きょうしろう」と申します。思い返せば自分自身が教師になろうと思ったきっかけは、ある夜ベッドの中で不意に「もし自分が教師になったら…」という妄想が始まったことがきっかけでした。「あれやこれやとおもしろそうなことが軒並み実現できるのでは?」と興奮冷めやらず、そのままのテンションで朝を迎え「小学校教師に、俺はなる!」という決断をした経緯があります。そこで今回は、私を含めて大人たちは「子どもが夢を追いかけること」についてどう考えているのか、そこを深掘りしてみます。お付き合いください。

「偉業を成した」「夢を叶えた」という美談は、ある程度成長し、円熟し、ようやく成果をアウトプットできたときの実感や外部評価を指すことが多い。地元出身のスポーツ選手が世界的な舞台に出場するなんてことが起これば、町中に横断幕やのぼりがひしめき、みんなで応援しようという気運が爆上がりする。

そういったステータスモデルを手本に「君たちもがんばろう」「夢を持とう」という指導も大いに盛り上がる。子どもたちを見ても、身近な先輩の活躍はシンプルにうれしいもの、応援したくなるものとして捉えているように思える。

かつての恩師の話を聞いたり、本人の卒業文集の作文を読み返したりしてみても、サッカーやら将棋やらと対象は異なれど、やはり当時からそれをこよなく愛し、ずっと努力を続け、かつ大きな目標があったという点が紹介される。

紹介する側にしてみれば、該当選手を応援することが目的なのではなく、それを手本にして、いまを生きる児童たちに大きな夢をもってほしいというのがそれである。

「みんなの応援のおかげで、ここまで来られました」という本人談なら、めでたしめでたしなのだが、どうもそうではない事例の方が多い気がするのが、今回このテーマを選んだ理由である。

不思議な話だが、そういった成果を上げた人たちの多くは「誰にも理解してもらえなかった」「自分の夢をバカにされた」「辛くて心が折れそうだった」といった内容の回想を話すという印象がある。「できっこない」「無駄だから止めておけ」という声への反骨として、自分を奮い立たせてここまで来たという成功者の方が多いのではないかと思う。

学校現場で見る限り、教師が児童の夢をバカにしたり、あきらめるよう説得したりする場面に遭遇することはない。夢を持ち、努力を続けてほしいという願いで接しているのだから当然である。それなのに、なぜ巷では「誰にも理解してもらえなかった」「夢なんて見るなといわれ続けた」という回想が主流なのでしょう。考えられる理由を3つほど挙げてみる。

1つ目は、教師を含めた大人が、子どもたちが語る夢を聞き流し、どうせ一時的な熱であって、すぐに冷めるものとして軽視しているという可能性。

2つ目は、大人尺度で、実力や努力が足りないという決めつけをしている場合。これからの伸びしろを考慮していないわけではないものの、それでも世間の注目レベルには至らないだろうと高をくくっていることが考えられる。

そして3つ目は、そもそも大人にとって、その夢自体に価値を感じていない場合。「YouTuber」「SNSのインフルエンサー」「ゲームクリエイター」などは、やはり既に大人になっている世代にとって、職業として成立するという認識がもちにくく、それ自体を偉業とは捉えられないのだろう。

それにしても、積極的に「あきらめなさい!」と強要している印象はない。無謀と思える夢であれ、追いかけるのは個人の自由といえばそれまでではないか。ひょっとすると、かつて「止めておけ」という助言をいい続けた世代は、それだけ親身に相手のことを思ってのことだったのかもしれない。むしろいまの大人の方が、優しいようで実は無関心といえなくもない。

いやいや、またまたひょっとしてだが、いまの大人だって無関心というわけではないかもしれない。町中にのぼりを立てたり、かつての作文を紹介したりするのも、夢を追う尊さを重視しているのは確かだが、その夢の「方向付け」をしたいと暗に思っているのかもしれない。「子どもたちよ、努力するなら、ぜひこっちの方向へ」と。

だとしたら、むしろ無関心なくらいで、せめて子供の自由な発想を「邪魔しない」大人でいたいというのが教師としての私の立ち位置である。

次回はその「努力の方向性」について考察したいと思う。

最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。

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