「きょうしろう」と申します。節々の痛みや複数箇所のかゆみと戦いながら、日々教室でテンション高く熱弁をふるう現役小学校教師です。
今回のテーマは発問に返答する児童の指名についての考察です。お付き合いください。
個人的に大きな発問は「1つの授業に3つまで」を理想としている。だがその3つの主発問に至る道筋で、そっちに寄せて寄せていくために、複数の補助発問が存在する。クセモノなのが、その補助発問で思わぬ拾い物があったり、大きな気づきがあったりする場合。何が主発問だか分からなくなってしまうことがあること。初めから「こっちの道筋!」と決めてたどっている場合は、たとえおいしそうな拾い物が見つかっても、手を伸ばすことを控えて前進を選ぶのだが、そうでないときは、そういった寄り道こそ、旅の醍醐味として楽しむことも多い。
いま書いていても、ここまでが既に醍醐味の寄り道にはまりつつある。本来はこちらの発問に対する「児童の受け止め方」に寄せて寄せていく算段だった。ここでいう受け止め方とは、児童の反応という意味である。つまり、教師からの発問について、またはほかの児童が発した意見について、どう反応するかということ。
①何もアクションを起こさない。
②首をかしげて一度考えてみる。
③さっと考えをまとめて挙手する。
まあ、大方はこの3つに分かれる。③が多かったとしても、私の場合、一度考える時間をとることが多いのだが、その時間をとったとしても、挙がる手の数はそれほど増えないのが常である。
全体を見渡し、ほんの数秒のうちに指名の順番を組み立てる。私の場合、最初は何か「かき回してくれそうな予感がする児童」を当てることが多い。「え、そっち?」的な答えが最初に来ると、賛成・反対ともにほかの児童が意見をいいやすくなるのではないかという意図が、そこにある。
以前「分類化のススメ」の回でも書いたが、一つの意見が出されたら、まずはそれに近い考えを集める。それがたとえ「教師から見て的外れ」であっても、似ている考えを募って、耳を傾けていくと、次第に核心に近づいていくなんてことも珍しくない。
無限に多数の手が上がり続けている状態でない限り、ほぼ「いいたい!」意見がある児童の声を網羅した後、全体をまとめていくのだが、こんなふうに学び合いの意見交流が盛り上がっている最中は、できれば普段ほとんど挙手をしない児童の声を聞けないものかと密かに期待する。
「ほかにいいたいことがある人、いるかな?」なんて告げながら、そういう視点で全体を見渡すと、ときどきそんな児童が自信なさそうに半分挙手しているのを見かける。
じっとそっちを見つめると、その子はすぐに手を下げてしまう。否、教師の視線が近づきつつある気配を感じた瞬間、もう手は引っ込んでいることが大半である。
こちらがやや口惜しいのは「それならほかの人の意見を…」と、別の児童の名前の一文字目を発した瞬間、または発する直前に、またその手が挙がることである。
こういった駆け引き、つまり挙げた手を目が合う直前に引っ込めたり、逆に、下げた手を、指名のピンチを回避した直後に挙げたりといった駆け引きは、私がこの職について以来、どの学級でもずっと続いている。
そこで、ある程度経験を積んだいま、学んだことがある。
少なくとも一度挙手した児童は、何かしら意見を胸の中にもっているということ。当たり前といえばそうだが、つまり、たとえ挙げた手を引っ込めたとしても、考え自体はその子の中に残っているのだから、手を引っ込めようが、こちらは気にせずに指名すればよいということ。
一度手を挙げた手前、たとえおとなしくて自信がなさそうであっても、ちゃんと自分の考えを言葉にして伝えてくれる。むしろ、そういった上げ下げの葛藤を経た児童こそ、意見に深みがあることが多い。それほど伝えたいわけではない意見なら、そういった児童は最初から挙手なんてしないので。
こちらにとって都合のよい解釈をすれば「先生はそうまでして自分に意見をいってほしいんだ」と捉えてくれる。つまり、しっかり自分の言葉でみんなに伝えようとしてくれる。
そういった児童の発言は、ほかの児童にとっても重みが違ってくる。いいことづくめだ。
なので、たとえ手が半分しか挙がっていなくても、たとえその半分が0になったとしても「攻めの指名」でいってみることを続けていこうと思う。
今回もまた、最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。また、お会いできますように。
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