学級の雰囲気を左右してしまう教師の存在感についての考察

指導スキル

「きょうしろう」と申します。日々の実務による疲労感は蓄積されている実感はあるものの、月曜日の憂鬱さを感じることなく過ごせている点では果報者です。まだしばらくは現役を続ける所存の公立学校教員です。今回のテーマは、教師の存在感や授業展開の資質についての考察です。お付き合いください。

その時間の授業を担う立場の教師を「指導者」と位置付けるのが、学校のデフォルトである。つまり、当たり前の話だが、教師とは「指導する者」ということになる。

授業の目標に沿って、そちらの方向に児童の思考を向けていくリーダーであり、話し合いを円滑に進めるファシリテーターであり、時間と空間を管理するマネージャーでもある。あらら、教師ってすごいんですね。

毎時間、何役もこなす指導者たる教師は、方向性を違えるわけにもいかないし、話し合いを停滞させるわけにもいかない。管理だっておろそかにはできない。目の前に大切なクライアントが多数いるのだから。

だが、そんなマルチタスクを涼しい顔でこなせるのはスーパーマンだけなので、普通の教師にとってはかなり高いハードルといえる。つまり、どの教師も毎時間、かなりへとへとになりながらすべてをコントロールしようとしているか、またはときどき抜きどころを見繕って多少の気力体力を温存しているか、といったところだろう。

私はといえば、かなり経験年数も積み重なっているので、そこはそれ、ある程度は流れのつかみ方が分かっていると自負している。少なくともスーパーマンではない。

「この授業内容のときは、導入がこうで、途中にこの活動を取り入れて、こんなワークシートを用意しておけばスムーズにいく。そういえば前に同じ単元を扱ったときにつくったワークシートのデータが保存してあったはず…」といった具合。なので、全集中で掌握しようとしなくても、それほど大きなずれに至らなくて済むことがほとんどである。そもそもこちらが描いた通りの展開になるなんて思っていないので、ある程度の誤差もその場で繕えるという自負もある。

コントロールというより、一度ゆるやかな流れをつくって、あとは子どもたち自らそこに乗っていくというのが望ましい展開であり、そう仕向けるスキルだって、経験とともに身についてくる。

だがここで立ち止まって考えてみる。このスキルで最初の流れをつくったり、場合によってはその流れを曲げたりするのが教師の役目だとする。となると、それをこともなげにやりのけてしまうカリスマ性は諸刃の剣とならないか。

つまり、子どもの思考を方向付けたり、話し合いの盛り上がりを請け負ったり、落ちのないように管理したりする能力に長けた教師が、もしそれらをうまく機能させない授業を進めたら、とたんに子どもたちの思考の流れが止まり、方向性を見失い、混沌に近い状態に陥るのではないかという危惧である。混沌は大げさだが、盛り上がりに欠ける授業や着地点の見えない授業は、さぞ退屈で苦痛だろうと思う。子どもにとってだけでなく、授業を担う教師にとっても。

となると、それを避ける方法として考えられるのは2つ。

1つ目は、教師の指導力を磨き、それをずっと発揮し続けるという方法。

もう1つは、そういった授業の流れをつくる役目自体を、子どもたち自身が担うという方法。

そりゃあ理想は後者でしょうよ。でも私自身は、その力を子どもたちに授けることができたためしがない。何度か試験的に児童主体の授業をやらせてみたことはある。こちらから投げかければ、必ず子どもの中から「やってみたい!」という声は上がる。それなりのやりがいも感じられる。だが授業の目標到達まで至ることはほぼない。だからといって「指導力向上&常に全力」を希求しようとは思わない。

「手を抜く」という表現は的を射ていないが、毎時間「手を尽くす」のも無理があるのだから、最適解が見つからない。まあ、それでもできることを無理なく進めているからこそ、それほど憂鬱や悔恨を感じることなく、これまでの教師生活を送れてきたのだろうと思う。

全力で子どもたちをこちらのレールに引き寄せるのではなく、自分が楽しいと思える展開をすると、実はそれが児童にとっても楽しいことだったという実状なら、双方にとって持続可能だと思われる。教師はスーパーマンでなくていい。教師を楽しめることこそ、必要な資質なんだろうと思う。

あらら、まとまりがない気しかしないのだが、最後までお付き合いいただきありがたき幸せです。またお会いできますように。

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