「きょうしろう」と申します。トーク力には自負があり、子どもたちから「先生の話、もっと聞きたい」といわれることが日々の励みです。
今回のテーマは、そんなトーク力の裏返しという意味でもある教師の質問力についての考察です。
保護者と面談すると、多くの方が口にするのが「私の子どものころは、もっと〇〇だった」という比較である。「もっとゆとりがあった」「いろいろな行事があった」「放課後自由に遊べていた」などなど。
「自分の世代と我が子の世代の比較」は、いつの時代にも起きることなので、きっと20~30年後には、いまの小学生が親となり「私が子どものころは…」という会話が繰り返されるのだろう。
そんな今昔比較の中でも多いのは「昔の先生は、もっと怖かった」というもの。体罰についての規定は、昭和のころから変わっていないにもかかわらず、昔は「叩く」という指導が問題視されることがほぼなかった。自分自身も教師から叩かれた記憶はかなりある。
翻っていまはといえば、体罰なんてまったく存在しなくなっている。「ひょっとして体罰と思われる可能性が0とはいえない」という対応であれば、それも避ける。
体罰は違法なのだから当然なのだが、体罰に至らないまでも「怒鳴る」「怒る」など、いわゆる「威圧的指導」といわれるものも、確かにほぼ見なくなっている。
だから子どもたちにしてみれば、どの先生も「やさしい」となる。ちなみに私の場合、あらかじめ子どもたちに「べからず」を3つ伝えてある。「この3つをしたときだけは、本気で怒ります」いいかえれば「そうでない限り、怒ることはありません」というものである。3つとはすなわち「人のいやがること」「約束の反故」「危ないと分かっている行為」がそれにあたる。
だが未成熟な集団が共同で生活しているのだから、実際はほぼ毎日のようにその3つが起こる。その都度本気で怒るのかといえば、そんなわけはない。
では、どう対応するのかといえば、子どもに「原因・経緯・今後の行動」を考えさせ、自身の言葉で説明させるのである。語気を荒げることもなく、返答を否定することもない。「うんうん、それで?」と、ひたすら自己の行為を振り返らせ、次の行動を決めさせることに終始する。こちらの質問に答えられないときには、言い回しを変えたり、選択肢を提示したりする。とにかくこちらから指示を出すのではなく、児童の言葉を引き出すことに努める。
子どもにとって、この一連の作業は、怒られる以上に大変な労苦になる。当該の児童の口から、トラブルの原因を語る際は、えてして自己弁護の言葉が多くなりがちだが、それをすると次はこんな質問が来る。「へえ、君は何もしてないの?それなのにどうして相手はいきなり悪口をいってきたと思う?」
この質問に本気で向き合うと、自分の行動の中に原因があったのではないかという振り返りができる。やっぱり何も思い当たることがない場合もあるが、どうせ相手の児童にも同じ質問を投げかけるので、そこで双方の食い違いや合意の落としどころの目途が立つ。
「怒られる時間」は確かに苦痛だが、目を閉じて下を向いていれば、5分程度でその時間は終わる。だが、「振り返って、考えて、自分の言葉で語る時間」は、それが済むまで終わらない。労苦の度合でいえば、こちらの方が重いといえる。
子どもたちにとって私は「怖くないけど、めんどくさい」と思われているかもしれない。怖さはなくとも恐るべしという教師像であるなら、望むところである。児童にとって、そういった一連の面倒を経ることが、明日からの人間関係の構築や自己成長に生かせると思っているからである。
最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。
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