「目標」と「目的」の差異についての考察

児童実態

「きょうしろう」と申します。久しぶりに管理職からきつく叱責され、自分の不十分さを痛感した今日でした。そんな私が考える今回のテーマは目標と目的の共通点と相違点についての考察です。「目的・目標」についての考察3回目となります。

以前にも書いたが、学校にあふれているのは「目標」である。なぜかといえば、達成すべき事項への志向が強まるからである。

それと比べると、学校で「目的」について問われたり考えたりすることは、ほぼない。

なぜか。

思うに「目的」という言葉自体の意味が不明瞭だからではないか。目標というものが志向の一本化や明確化に有効なのは、そこに数値や結果を当てはめるものだからである。例えば「県大会ベスト8」や「全員完走」など、とかく目に見える、客観的にも判断できる努力の成果を設定することが大方である。対して目的は、まあ、何をめざすのかがぼやけてるといわれても否定できない。

私自身、長く教職についているものの、目標を決めることは無数にあれど、目的を決めた、または子どもと一緒に考えたことはずっとなかったように思う。

「ずっとなかった」ということは、いまはあるという意味となる。というよりいまはむしろ、目標を聞くことはほぼなくなって、毎回のように「目的」をクラスの子どもたちに質している。

「それをする目的は?」という聞き方が難解なら「なんのためにそれをするの?」が、ほぼ同意義となる。「なぜそんなことをするんだろう」「それをする意味は何なんだろう」と、子どもたち自身に考えさせる場を、くどいほどもたせている。

そんなことを考えさせる目的も、また考えてみたい。

その行為が仮に他者への迷惑に当たるなら「ぼくはなんでこんなことをしちゃったんだろう」と内省する機会は、明日以降の行動変容につながるという意味をもつ。自分の考えを言語化・文章化する修練にもなる。

迷惑行為への内省ではなく、クラス単位の団結を目指す場だったとしたらどうか。仮に自分のクラスで長縄大会の目標を「3分間で320回跳ぶ」と設定したとする。ではその目標を設定するのは「何のため?」と聞かれたら、子どもたちは「クラスみんなで努力するため」「練習の成果を発揮するため」的なことを答えてくれる。だがその先を考えることは少ない。つまり「なぜみんなで努力するのか」「なぜ練習の成果を発揮したいのか」という深掘りである。

「努力を継続する自分たちのカッコよさを上げたい」「誰かにほめられたい」「2組に勝って自慢したい」等々。ここでも多数の声が挙がるのだが、ではなぜカッコよくなりたいのか、なぜほめられたいのかと、次の層へと深掘りを進めていくと、最終的に行き着くのは「自己成長」と「幸福享受」の2つに行き着く。つまり「あらゆる努力や成果は、自分を高めて幸せになるためにすること」というまとめになる。

だが、そこまで深く掘る前に、学校では「みんなを喜ばせたい」や「カッコイイところを見せたい」辺りで落ち着かせることが多い。とにかく「何のためにそれをするのか」を、子ども自身が納得できている状態をつくることが大切なのだから。

大人が目的について考えると、子ども以上に自己の幸福を望んでいることが分かる。自分も含めて。

だがそれはまぎれもない努力への原動力であって、ヨコシマなものでも、自己中心的なものでもない。ちょっと想像すれば分かると思うが、宝くじが当たったときの自分と、誰かの恩人になって感謝される自分。幸せなイメージが高いのは後者であろう。誰かに喜ばれる行動ができる自分でありたいと思うし、たとえ宝くじが当たったところで、そのお金を使う「目的」もまた、自分に問われる。

最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。

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