「アメとムチ」についての考察

児童実態

「きょうしろう」と申します。公立小学校の現役教員です。本ブログで、現場の本音やこれまでのノウハウをつづっていくうち、いままであまり焦点化していなかったことも自分なりに深掘りするようになりました。自分自身の日々の実践をブラッシュアップするうえでも「書き記す」という行為は有意義だと感じています。今回のテーマは、児童への「アメとムチ」に対する私的な考察です。

基本的にはアメもムチも反対である。ムチという言葉の響き自体、昨今のコンプライアンスにはっきり抵触しそうだし、たとえ痛みを伴うものでなく、何かしらの罰則という意味合いだったとしても、やはり児童に「○○ができなかった罰です!」と告げながら何かしらを強制するのは、課す側としても気持ちのいいものではない。

とはいえ、努力の継続に対して、または何かしらの成果を残したことに対する「ごほうび」「報酬」「対価」そういったもの自体を与えることは賛成である。教師にしてみれば、そんなときくらい、きっぷのいいところを見せたくもなる。だからごほうびの類は自分自身もときどき贈呈している。

それって、つまり「アメ」では?と自分でも突っ込みたくなるのだが、そこには自分なりの線引きというか、明確な違いがある。

ごほうびの贈呈自体は賛成であるものの、いわゆる「アメとムチ」と呼ばれるものは、そもそも「アメがほしいから○○をがんばる」「ムチがいやだから○○をつづける」という前提の言葉である。つまり目的が「ムチを避けてアメを得ること」なのだ。私見では、動物の調教をするときのイメージがそれに近い。だが学校生活における諸々の活動がそんな目的で行われるのなら、努力や成果を求めようとするのは正しいと思えない。

努力を継続することや成果を残すことは、児童自身がその行為自体に価値を見出している必要がある。その場合、ごほうびのありなしにかかわらず、自主的に同じ行動をとる。そして同時に、その行為をした自分自身を誇らしいと感じている。そのときにのみ、その行為に価値があるといえるのだろう。

そんなカッコいい子どもたちの姿を見て、思わずできうる限りで何か喜ばせてあげたくなるというのが、望ましい形のごほうびではないか。

さて、ここで分からなくなってしまった。ごほうびといっても、お金を渡したり、アメそのものを配ったりすることはない。教師がごほうび的なものとして与えることができる第一は「ねぎらいや称賛の言葉」であり、それに次ぐものとして「よくできましたスタンプやシール」などが考えられるが、ここでいうごほうび的な位置づけは、もう少し特別感のあるものをイメージしている。だが、基本「給食のお代わり優先権」または「お楽しみに使っていい時間」の2つしか思い浮かばないのだが。

ちなみにお代わり優先権は、誰かしら特定の児童のみに与える場合であり、時間はクラス全員に与える場合として線引きできる。

分からなくなってしまったのは、この「時間を与える」ことの功罪である。例えば運動会のダンスを毎日一生懸命に練習してきたことをねぎらい、本番成功後に「自由に使っていい時間を20分あげる!」と伝えたとする。子どもたちは喜んで、その時間をどう使おうかと思案をめぐらしたり、そのための話し合いをしたり、お楽しみ会を企画し、実行委員を選出したりする。

こちらとしては、そんなに有意義に使ってもらえるなんて嬉しい限りなのだが、その嬉しさは長くは続かない。次に控えている音楽会の練習が始まるとき、こう聞いてくる児童が現れるからだ。「先生、今度は何分くれるの?」

必ずしも、児童の目的は「自由に使える時間をゲットすること」ではないだろう。だが、後でまたごほうびがもらえることを期待するのも、そしてそれをあからさまに口にしてしまうのも、子どもの在りようなのである。

となると、やはり私自身の「アメとムチ」の線引きはあいまいで、結局子どもは「ごほうびがもらえてうれしかったです」という感想で終わってしまうのかもしれない。私自身がそう仕向けてしまっているのかもしれない。

まあ、そこまで考えたとしても、今後も私は自分のものさしで、お楽しみの時間やお代わり優先権を与え続けるだろう。そして「音楽会の後は何分もらえるの?」と聞いてきた児童には、すっとぼけて「それを口にしなければ、3時間ぐらいあげたんだけどな」なんて返すのだろう。

こういう場合こそ「明確な基準のなさ」を生かせる数少ない機会であるように思える。つまり「先生のさじ加減ひとつ」を許してちょうだいというわけだ。

今回もまた最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。

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