若手教員の活躍に対する本音

教師の実状

「きょうしろう」と申します。日々「ベテランですもんね」「頼りにしてます」なんて声をかけられますが、経験年数と研鑽が比例していないことを誰よりも自覚しています。むしろ私自身が若手の教員をとても頼りに思っています。そんなわけで、今回のテーマは、同僚諸氏の中でも、特に若手に対する思いや期待をつづります。

先日、高校時代からの友人たちと久々に飲む機会があった。その中で一人が「Z世代との接し方が分からん」と嘆いていたのを聞き、興味をもった。「あいつら、いってることは極めて正論でまともなんだが、それで仕事が回るかっていうと、別問題なんだ。そのことを指摘しても、さらに正論を畳みかけてくるだけで、話が先に進まない」といった主張だった。

聞いていて「なるほど」と思った点が大きく3つ。

1つめは、一般的にいう「世代間ギャップ」は、どの世代に対してもやはり感じるものなのだなということ。確か以前、別の友人は「ゆとり世代」の若手について酷評していた。世代間のはがゆさは変わらずに存在するのだなという意味での「なるほど」である。きっと我々が若手だったかつても、当時のベテラン勢は同じようにギャップやモヤモヤを抱えていたことだろう。

2つめはZ世代特有ともいえる「主張は立派」についてである。私より前の時代については知らないが、それ以降を見てきた限り、これまでの日本人は目立つことを好まず、できれば誰かにやってもらいたい、任せたいという考えで過ごす者が多数派だった。「楽をしたい」というよりは「自信がない」「失敗したくない」という思いが先に立っていたように思う。だから、少数派の「俺やります!」的な人物がいると、次から次へとお鉢が回ってくるか、または「出る杭」として横並びになるまで打たれるかだった。

それがいまや「主張は立派で、理路整然としている」と先輩世代からいわれるようになったのだから、教育というものの影響力を垣間見た気分にもなるというものだ。そんな若者が増えてきたのなら、それはそれで好ましいことではないかという意味での「なるほど」である。

そして3つめは、そんな世代を生み出した教育現場にいる「現在の若手教員たち」との違いである。日々ともに仕事をする教員諸氏の大半は私より若い。そんな年下の先生方とともに仕事をしていて、これまで「まったく最近の若者は…」とため息をつきたくなったことは、私自身一度もない。ひょっとして若手諸氏の中には「まったく先達の教員は…」というため息がもれているかもしれないが。

とにかく若手の教員諸氏は、よく気がつくしフットワークも軽い。そして確かに「理路整然と」語ることができる。もちろん、最初からというわけではないが、たいていのことは一度経験すれば、次からはテキパキと仕切れるようになっている。

「あ、これ、先にやっときました」「先生のクラスの分の印刷物、ここに置いておきますね」なんてことを、毎日のようにしてもらっている。こちらもなんとか「このワークシート、よければ使って」なんてことで報いようと思うのだが、気遣いと自主性は、若手教員に及ぶべくもない。

これって、とてもうれしいことだと思う。

日本の未来を担う世代が、さらにその先の未来を生きる世代を、フットワークの軽さと自主的な貢献の意識をもって育てている。こんなに頼りになることはない。

では「ベテラン」と呼ばれる我々世代の役割は?

私自身は、若手を後継者として育てることではなく、楽しんでいる姿を見せることだと勝手に思っている。いくら「理路整然と語る」ことはできても、それで子どもたちが理路整然と行動してくれることは望むべくもない。正論を語っても子ども相手では伝わることの方が少ない。そんな中で思い悩むのも、若手だからこそである。だったらベテラン世代は、むしろ「うまくいかないのがデフォルト」「たまにうまくいくのが快感」という体で、日々楽しんでいる姿を見せればいいではないか。

というわけで、私自身はこれからも若手に頼る日々となりそうです。今回もまた、最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。また、お会いできますように。

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