「きょうしろう」と申します。公立小学校の現役教員です。日々の実践で得たノウハウや、児童の実態への私見などをつづっています。今回のテーマは「目標を設定する意義についての分析」です。
学校という社会では、とかく目標という言葉が頻繁に使われる。クラス目標や児童会目標、夏休みの目標、2学期の目標などなど。運動会のスローガンや新年の抱負などもそれに近い。
おそらく1年間で、自分またはクラスで決めた目標を全部覚えている児童はいないのではないかというくらい、目標にあふれている。
こうまで学校が目標に目がないのには理由がある。個人的な目標についていえば、それがあることで意欲や向上心につながると考えるからであり、団体的なものでいえば、みんなが同じ方向に進みやすくなるからである。どちらにしろ、その目標の達成に近づけていく過程で、自己の成長や協調性という好ましい素地が期待できるからこそ、学校は多くの場でそれを取り入れようとする。
目標について考えるうえで前提となるのが「持続性」である。継続は力なりという諺が示す通り、目標達成に向けた不断の努力があってこそ、自己成長の機会となるわけであり、そもそも何の努力もないままで達成できてしまう目標なら、そこに喜びも満足も感じられない。目標と継続とは切り離せない関係なのだ。
だが前提である持続性とは別に、目標に関わる不可欠要素が2つある。
1つは、そもそもそれを目指したいと思うようになる「きっかけ」であり、もう1つは、実現の機会が来たときの勢いや思い切りのよさである。
個人の目標を決めるのは、いうまでもなく児童個々であり、なわとびのスキルアップであったり、既習漢字の完全習得であったり、給食を残さず食べきることだったりと、多岐に渡る。だがそのいずれも、決めるまでに多少の迷いや葛藤はあったはず。友だちの華麗な姿を見て自分もそうなりたいと憧れたのかもしれない。「これくらいなら、ちょっとがんばればできそう…」という、ある程度のゆとりや妥協を計算して決めたものかもしれない。だが、何かしらそこに近づくことへの価値を感じたからこそ、その目標を選んだというのは共通であろう。つまり目標には、そこに自分をもっていきたいと願うだけの価値があるものしか選ばれない。
だが、いざ目標を設定しても、それに向けた努力を継続することの難しさは、むしろ大人の方が熟知している。続けられないどころか、何を目指したのかを思い出せないという人の方が多数派だろう。私もそう。
そのあたり、子どもたちは大人以上にシビアであり、むしろ現実的かもしれない。様子を見ていると、かなり先の将来を描いた夢でいえば、メジャーリーグでの活躍やミリオンセラー歌手など、それはもう大それたものを望むのがむしろ普通なのだが、期間を区切った、いわゆる「チョミライ」の目標であれば、ちょっとの努力で手に入る程度のものを選択するのが児童の主流である。「外で元気よく遊ぶ」やら「手洗いをちゃんとやる」など。目標といえばそうだし、すでに習慣化しているといえばそれもそう。つまり、あえて目標にしなくても、ほぼ達成できているという範疇のものである。
一方で、習慣化でまかなえてしまう範疇を超えたもの、つまりある程度の努力を要するものを目標に設定した場合は、もう1つの要素が意味をもつ。チョミライ目標として、ある程度達成の見込みがあって、しかもそれに向けた不断の努力が苦ではなく、さらに習い事のように定期的に打ち込める場まで整えられているなら、決めた目標の域までたどり着く可能性は高まる。だがそこで花開けるかどうかを分ける要素が「思い切り」「勢い」といった心情なのだ。
スポーツの試合や芸術分野の発表会などの例が分かりやすいだろうが、もう少し小さな舞台、つまり学校の中でもその大切さは共通している。「手を挙げる」「意見を言葉にする」という行為は、苦手な児童にとって、とても大きな決断の場であり、それを自らの意志だけで遂行するのは、こちらが思う以上にハードルが高い。だから教師は、そのハードルを低くするために、導入として「この質問になら答えられるはず」というもの、たとえば「すっかり秋らしくなったけど、君たちはどの季節が好き?」なんてものを投げかけたり、たとえ手が挙がっていなくても、あえて指名したうえで一緒に考えたりする。「君は…この意見に賛成?それとも反対?なぜかというと…?うんうん、その続きは?」なんてことを促しながら。
教師がそういった手立てを講じることも是と自負しているものの、できれば児童が自ら「手を挙げてみようかな…」と自分を鼓舞できればさらに好ましい。だとすれば、あらかじめ目標としてそう設定しておくことで「挙げてみようかな。だって、それがぼくの目標だもん」という押しの一手は、大きな勢いになる。
まとめると、目標の意義は大きく3つ。1つは方向性や意欲づけに直結しやすいという点。
1つは、そこには目指すだけの価値があるという自覚をもてるという点。
最後に、それがあることで土壇場の一歩を踏み出せる可能性が高まるという点。
自分でまとめておいて自分で覆すようだが、実は私自身は目標の設定に対してそれほど大きなこだわりはない。クラス目標も教室に掲示していない。なぜかというと、学校の大好物である「目標」のさらに上、もう一段階「高次」にあるものを大切にしたいという思いが強いからである。私が考えるその高みは「目的」である。それはまた改めて。
最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。
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