「きょうしろう」と申します。現役小学校教師です。昼休みは毎日子どもたちとなわとびをして心身のリフレッシュをしています。
今回のテーマは、言葉の与える印象と、その印象を危惧した過剰な自制についての私見です。
学校現場に限ったことではないが、それにしても学校は「人対人」の最たる場である。特に教師の言葉が、目の前の児童に与える影響力を考えると、やはり投げかける言葉の「意味」や「重さ」は常に配慮が必要である。ふとしたときに投げつけた言葉のトゲが、その後ずっと児童に刺さったままだったなんて、あまりに痛い。そうはいっても、教師もただの人なので、不用意な失言や、誤解を招く言い回しなどもままある。自分自身の話でいえば、教室では年甲斐もなくハイテンションな状態が多く、毎日大量の言葉を、身振りを交えて放出しているので、そういったリスクも無縁ではない。場を和ませるため、または本人を元気づけるために使った言い回しが、まったく的外れだったり、むしろその一言で落ち込ませたり、なんてこともなかったといえばウソになる。
ただ、自分はその職業上、言葉に対する責任はもっているつもりであり、そのためか、自分がいま放った言葉に多少なりとも不適切な要素が含まれていたなら、何らかの違和感や後味の悪さが残る。その不適切さは、自分自身が尺度となるため、厳密にはそのアンテナに引っかからなくても児童にトゲが刺さることはあったかもしれない。
何にしても、その違和感は自分と子どもとの信頼をつなぐ細い糸のようなものなので、せめてその糸に気づいたなら、相手には誠意をもって謝ることにしている。大抵は自分が感じた不適切さを、児童自身が感じることはなく、むしろ「先生が、まじめな顔で自分に謝ってくれたのが、なんかちょっといい気分」という様子だが。
とはいえ、である。最初から「相手が嫌な印象をもつかもしれない」という構えがあまりに強くなると、教師が紡ぐ言葉は、平易で単調で面白味のないものとなっていく。教師自身、それを口にしながら、自分の言葉に魂がこもっていないことを痛感するだろう。分かってほしいという熱意どころか、そもそも伝えたい内容自体があるのかないのかすら、よく分からないものとなる。一言でいえばつまらない。
失言を恐れるのは正しい。だが失言に気をつけるのは、その言葉で相手を傷つけるのを避けるためであり、どこぞの誰かから非難される「かもしれない」事態を避けるためではないはずだ。誤解を招く言い回しは避けるべきだが、何もいわない、または表面だけのおためごかしな内容しかいわないのは、もっと避けるべきだと強く思う。
昨今、特に言葉を伝えるのが生業であるマスコミの規定では、その公共性と広範への影響力とが懸念され、かなり倫理的に厳選された表現、狭められた言葉群の中での伝達になっていることが見てとれる。だが、一部から「不快だ」といわれる「かもしれない」ことを危惧するあまり、多くの言葉が使用を控えられるようになっているのだとしたら、言葉、特に日本語のもつ的確さや美しさを損なっている面もあるはずだ。
日本語を紡ぎ、そのよさを伝えることを生業としている我々教師にとっても、いるかいないか分からない不快と思う「かもしれない」ごく一部への危惧だけのために、的確で端的な表現や、特有の美しさの備わった表現が減ってしまうことは避けたい。魂と熱のこもった言葉、より正しく、より温かみのある言葉を発し続けていきたいと思う。
最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。またお会いできますように。
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