ノート記述「あるある」の考察③

児童実態

「きょうしろう」と申します。オンオフの使い分けには自信のある現役小学校教師です。ちなみにこのブログは「オン」の要素を、気負いのない「オフ」の時間につづっているので、本当のところは使い分けできてないです。混在です。さて今回のテーマは、ノート記述についての「児童あるある」の3回目です。

ノート記述「あるある」の①は「いたずらがき」のある意味「才能」といえる伸び伸びさについて触れた。②では、右綴じ縦書きと左綴じ横書きについての実状と私見について触れた。

③となる今回は、謎の空白ページについて考察してみる。

ある課題について、自分の考えや感じたことを児童がノートに記述したとする。それを回収して放課後に教師がその記述箇所に目を通すとする。

すると、ノートの記述1つとっても、いくつかのタイプがあることにいやでも気づく。たとえば、与えられた課題に対する自分の考えをいきなり書き始めるのではなく、その前に「どうしてかえるくんは、自分でお手紙をわたさずに、かたつむりくんにたのんだのか」なんて問題提起の一文もしっかり書いてるパターン。これができていると、後でノートを読み返したときに役立つので、そこまでしっかり書くよう声かけは継続している「つもり」なのだが、これまでを見る限り、そこはあまり重視していない児童が多い。つまり、課題に対する自分の回答だけをダイレクトに書いているというパターンが過半数である。

逆もいる。思いつかなかったのか、時間が足りなかったのか、途中で集中が途切れたのか、とにかく「問題提起の一文のみ」書いてあるというパターン。試しに次のページをめくってみても、やはりそこには回答らしき一文はない。「書く」という作業は、特に好き嫌いの二極化が激しい領域なのだと、改めて思う。

「嫌い」に該当する児童に多い特徴は他にもある。「謎の空白ページ」である。

残念なことに、ノート記述が苦手な児童は、ページの使い方自体が稚拙であることが多い。前述したように、問題提起の一文のみでそのページが終わってしまい、次の日の授業では、また次のページに一文のみ書いて終わるなんてこともある。そんな児童のノートを、遡って逆にめくっていくと、途中にまったく使われていない空白ページがいくつもはさまれていることに気づく。

これは、低学年・高学年に関係なく毎年見られることで、気がつくたびにコメントで注意を促したり、全体に声かけをしたりといった措置を講じるのだが、なくなることはない。

「謎」と書いたものの、そういった空白ページが生まれる理由は、いくつか推測できる。第一の仮説は、たまたま開いたページにその日の課題や感想を記述しているというもの。そうだとすると、該当の児童にとって、ノートは時系列に沿って書くという意識が薄いということになる。つまり「最初の1ページを使ったら、次のページをめくる」という、一般的に当たり前と思われる概念がない場合である。「らくがき帳」の使い方なら、そんなものかもしれないとも思う。「学習用だから順番に従って」なんてことは、教える側の勝手な価値づけといわれれば、そうかもしれない。

もう1つの仮説は、単純に手指の力加減や器用さに起因するもの。つまり、本人は次のページをめくったつもりなのに、実際は複数枚のページをめくっていたという場合である。

どちらのパターンもありそうだし、その他のパターンもきっとある。こちらとしては、後で見返したときに、書いた内容の意味が自分で思い出せるノートにしてほしいという願いはもち続けていたい。だが、児童それぞれの価値づけや実状も頭の隅には置いておこうとも思う。

そもそも児童にとって、1時間の授業に全力で集中しているなら、後で見返す必要すらないのかもしれない。算数の授業の冒頭に「前の時間に、どんな勉強したか覚えてる?」なんてことを尋ねたとき、即座にノートを開いて「ええと、何だっけ…?」なんてことを探し始めるのも意味はあるかと思う。だが、そんなことせずとも「長方形ってどんな形なのかを考えた!」なんてことをすらすらと思い出せるなら、そもそもノート記述自体が本当に必要なのか、その意義も再考すべきかもしれない。

今回もまた、最後までお付き合いいただき、ありがたき幸せです。また、お会いできますように。

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