きょうしろうと申します。現役の小学校教師です。日々の実践や、子どもとのかかわりで感じた私見などを、つれづれなるままにしたためています。訪れた皆様に何かしらのお土産が渡せれば幸いです。
「ある特定の言葉」について、自分なりに掘り下げて考えてみることにする。言葉の掘り下げは、今後も継続していきたい。今回選んだのは既にほぼ死語となっている「ぶりっ子」という言葉。
流行したのはずいぶんと昔のことであり、自分自身もかつてその扱いをされた経験があるため、決して好んで使おうと思わない言葉ではある。好むも何も、周囲で誰一人使っているわけではないので、ここであれこれ述べる意味はそれほどない。それでもこの話題についての投稿をあげておきたいのには、こんなところにも児童の自己顕示のしかたが「好意的な意味で」表れていると思えるからである。
「かわい子ぶっている」「いい子ぶっている」というのは、前提として「本当はそうではないのに…」という意味合いが含まれる。では「かわいいか、そうでないか」「いい子か、そうでないか」を判定する主体は誰なのか、改めて考えると「自分か他者のどちらか」それ以外にない。
まずは「自分」を主体とした判断で考えたとき、自分で自分のことを「かわいい」と思うかどうかは、日によって異なるのではないか。「今日はぜんぜん前髪が決まらないから自分がかわいいと思えない」「このところ肌のハリがよくて前よりかわいくなった気がする」といった具合だ。同じことは「いい子かどうか」についてもいえる。一生懸命に算数の文章問題に取り組む日もあれば、つい掃除の時間にほうきでチャンバラを始めたくなってしまう日もあるのだ。
翻って「他者」からの判断について考えると、当該人物の影の部分を除外した評価が基本となる。ここでいう「影」とは「ダークな一面」という意味ではなく「本人しか知らない部分」という意味だ。つまり教師や友だちから見て「表に出ている部分」のみで「本当にいい子」なのか、それとも「本当はそうでないのに、いい子ぶっている子」なのかが判断される。
だが、自分しか知らない影の部分がある以上、誰だって「無垢ないい子」であるはずはない。心の底まで無垢であるなら、まるで「ネギを背負ったカモ」のごとく、自らを取り巻く様々なリスクの回避がままならなくなる。そもそもまるで疑うことを知らず、すべてを額面通りにしか受け止められない、空気も読めないとなると、社会適応そのものが困難となりそうだ。だとすれば、人間すべからく「いい子ぶっているぶりっ子」となる。
全員が当てはまるにもかかわらず、ある特定の人物を指して「この人はいい子ぶりっこだ」と決定づける行為がまかり通るということは、ある人物に対して「この人は本当にぶりっ子かどうか」を基準としているのではなく、判断したがる人間から見て「カッコつけている」「見た目ばっかり繕っている」と映るときの侮蔑、つまり「気に入らなさの度合い」を基準としていることになる。
だが、そういった生意気さや自己アピールの高さなど、他者から悪感情をもたれる「きっかけ」は、行動の主体である当人にとっては既に顕在化している部分である。
クラスメートから見た生意気ぶりなら、きっと教師や他の関係者から見ても生意気に映るだろう。
ここでいう「いい子ぶる」という概念が「教師の前では」という前提も含んでいるとすれば、教師から見たその子は「いい子」だが、クラスメートから見たその子は「いいこぶっている子」となる。教師の前でだけ見せる「表の顔」と、教師のいないところで見せる「裏の本性」との間に、明らかな差異がある児童のことを「ぶりっ子」というのであれば、その切り替えを完璧にこなす存在もまたレアである。
そもそも教師の前でだけ「いい子」でいるメリットがない。「ほめられる」「しかられない」はメリットといえなくもないが、そんなことのために本性を隠す面倒くささより、ついまた廊下で追いかけっこを始めてしまう「易い行動」こそが児童の本質である。細心の注意を払って教師の前で仮面をかぶり続けたとしても、友だちの前で別の顔でいるなら、友だちがそれをよしとするわけもない。学校という社会の中で生きている限り、どうやっても教師の前でだけ継続的に「いい子ぶる」のは無理がある。
私がこれまで一緒に過ごしてきた小学生は「いい子ぶりたい」と願って行動することは皆無だった。目指しているのは「いい子ぶる」ことではなく「正しいと思えることをする」ことだ。それがままならないから子どもなのだが、先生の前でだけ、いい子ぶることを目指すのは、当の子どもから見ても無意味であることは肌で感じるだろう。自己顕示は教師へのアピールのためにするのではなく、まあ、たまにはそういうこともあるが、自分自身がそうすべきだと思うときにするのが人間だ。
結論、全員が自分のことを「いい子ではなく、影の部分も存在することを理解したいい子ぶっている子」であることを承知しており、なおかつ「人前でいい子ぶりたいのではなく、必要なときに正しい行動をとりたいと願ってはいるものの、なかなかその実行がままならない子」なのだから、この「ぶりっ子」という考え方自体が不必要という捉えとなり、今日に至るまでにほぼ使われなくなったのであろう。
長々と持論の展開はしたものの、語るまでもなく結論が出ている内容に、最後までお付き合いいただき、いつも以上にありがたき幸せです。また、お目にかかれますように。
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